ゴミ山

しがない一次創作者の設定の吐き溜め。微エログロ含みます。特殊性別、奇形など。

6月の鴉 『物語の登場人物の死』

あの6月の夜の出来事。少女と青年は出会った。2人は出会うべきではなかったのだ。ロンドンは、相変わらずの雨が降るともつかない曇り空。日のない街の中に教会の鐘の音が響き渡る。そして2羽の鴉が、遥か遠くへと羽ばたいていった。


月のない夜、フラットの石の壁と窓を銀の雨が叩きつける。
ここ、ウェストミンスターの街は雨に包まれていた。もう11時を回りそうだというのに、窓の外では車が行き交い、水溜りに映り込んだ街灯の光を溶かす。部屋の主―少女ロゼッタ・バーズリーはひとつ憂鬱を吐き出して、読みかけの本に栞を挟んだ。6月だというのに室内は水族館のようにひんやりとしていて、ロゼッタはクローゼットから薄手のカーディガンを取り出し羽織った。雨のせいだろうか、そこはかとなく身体が怠い。ほんの少し重い瞼をこすりながら、机に備え付けられたライトを消しベッドの中に潜り込んだ。窓からは、僅かに明かりが入り込んできて格子模様が映しだされる。それから目を背けるように、猫のように身体を丸めると布団を頭まで被った。世界を拒絶して、自分だけの城に閉じこもれば、聞こえるのは自らの心臓の音だけだ。一定のリズムを保って体内を駆け巡る血液、生の証。柔らかいベッドに沈んで、それに耳を傾けながら目を閉じれば自ずと先程まで読んでいた本の内容が反芻された。何度も読んだ本、主人公の女性が愛する男性と共に心中して物語は幕を閉じる。
主人公は、死が怖くなかったのだろうか。愛する男が隣にいれば幸せと呼べるのだろうか。愛する男を手にかけ、自らの頭を撃ち抜いた女の姿が瞼の裏に浮かび上がっては消える。死をもってして永遠の愛を誓った2人は穏やかに笑っていたと、そう書かれていた。
死とは救済だ、この理不尽で残酷な世界から逃れるための。しかし行き先は天国ではない、自殺とはキリスト教において罪とされる。救済を求めた先にあるのは救われようのない地獄だ。あの2人は真に救われたのだろうか。
少女はかぶりを振って考えるのをやめた。物語はフィクションだ、ただの紙の上の人物たちに思い馳せても仕方がない、馬鹿馬鹿しい。そう終止符を打って、眠りという普遍的無意識の大海に船を漕ぎ出した。

少女はふと、目を覚ます。意識が浮上する前に、雨がやんでいることを知った。布団から顔を出すと、部屋に柔らかな月の光が差し込んできているのが見える。外は静かで、街は夜明けの香りの微かにする透明な空気に包まれていた。
ふと、ロゼッタの耳に窓硝子をノックする音が聞こえた。コン、コンと、何者がが意図して叩いているようにも思えた。けれど床には、相変わらず格子だけがひっそりと影を落としている。
不思議に思い、身を起こして目線を窓にやれば、そこに彼はいた。
癖のある金髪に、海の底から水面を見上げたような碧眼。頬や鼻先にはそばかすが散らばっていて、薄い唇が弧を描いている。ただ、青年の身体は道路向かいのフラットを透かしており、月のライムライトに照らされた夜の中で輪郭がぼんやりと浮かんでいる。だが常識的に考えてそれはおかしい。なぜなら、ロゼッタはフラットの3階に住んでいるからだ。しかし彼女はさして驚いた様子もなく、それが当たり前というように自然に窓の前に立ち、窓の戸を開けた。
ロゼッタの赤毛が、目が覚めるほど輝く黄金の月に照らし出される。開け放たれた窓からは、冷涼な清い空気が部屋に充満し、そして仄かに、まだ雨の匂いがした。
少女と青年は出会う。2人の視線が交差して、重苦しいとも静寂とも呼べる、2人きりの世界が広がった。
「…貴方は、誰?」
青年の目が見開かれる。その驚きのままに、薄い唇から言葉がこぼれ落ちた。
「…驚いた。君には本当に僕が見えているのか」
「どうして私のことを知っているの?」
「ああ…やっぱり君の目に僕は映っていなかったようだね」
今度は演技たらしく、肩をすくめて溜息をひとつ。まるでステージの上の役者のように大振りに、恭しく頭を下げた。
「僕の名前はフレデリック・ボイド。君と同じロンドン大学、UCLで社会科学・歴史科学部の生徒さ。覚えてない?」
ロゼッタは口元に手をやり、記憶の中を思索する。数秒、情報を遡れば漸く合点がいった、というような顔をした。
「ああ…フレデリックさん。そう言えばいましたね」
「覚えててはくれたんだね。ああ、同学年なんだ、敬語は使わなくていいから」
「…じゃあ、フレデリック。どうして貴方は私の所へ?」
不思議そうな顔で、落ち着いたヘーゼルの瞳がフレデリックを見つめる。すると、青年の顔にさっと翳りがさした。
「ああ…それはね、君が幽霊が見えるって噂が立ってたからだよ。僕は今日死んだ。けれどこの通り、僕は幽霊になってる。君が幽霊が見えるとすれば、話ができるんじゃないかと思ってね。まさか本当に見えるとは、思っていなかったけれど」
「…ええ、まあ。見えるのはこの通り事実よ。けれどわからない。なぜわざわざ私なんかと話をしに?幽霊となった人は大抵、この世に未練を残している。それさえ解消してしまえば、貴方は神の元へと行けるはずよ」
フレデリックはそう言われ、苦虫を噛み潰したような、できれば言いたくない、というような苦悶の顔を浮かべる。視線が右往左往彷徨い、言葉を慎重に選んでいるようだ。
「ああ…それは、そうだね。けれど僕の未練は、そう簡単に解消しそうにないんだ。だから、協力を求めるとかじゃないけど…僕が神の元へいけるまでの間、話し相手になって欲しいんだ」
「…それはどうして?」
「うーん、強いていえば寂しいから、かな。僕の姿は君以外の人には見えない。存在しても認識されない。それが悲しくて、寂しいのかも。…勿論、迷惑だったら君を訪ねるのはやめるよ」
「いえ…別に…話し相手くらいなら。野外で話し掛けられるのは困るけれど」
フレデリックは安心したように、ほっと胸をなで下ろす。死人のそれと同様に、血色の悪い顔で微笑んだ。
「そうか、それはよかった。これからよろしく。なら僕のことは気軽にフレディと呼んでくれ。」
「…ロゼでいいわ。…ねえ、一つだけ聞いてもいい?」
「ん、何だい?答えられる範囲なら答えるけれど」
「死ぬのって怖い?」
凪いだ湖に小石を投げ込んだように、困惑と動揺、静寂の波紋がゆらめいて広がる。彼女は至って平然としていて、その瞳が揺らぐことはない。フレデリックは、瞳から実体のない暗い闇を覗き見たような気がして身体の芯が冷える思いだった。
「…いや、あまりに突然だったから、恐怖を感じる余裕はなかったよ。まさか死ぬとは思っていなかったし、唐突に後ろから突き落とされた感じ。それに僕は今確かにここにいて君と話をしてる。正直に言うと、あまり死んだっていう実感がないんだ。…どうかな、君の知りたいことには答えられなかったけど。ごめんね」
「…そう。いいえ、いいのよそれで。ただ、少し気になっただけだから」
2人の間を、しっとりと肌寒い風が通り抜ける。
「死ぬのってどうなんだろうって。ただそれだけ」
日常の影に張り付いて潜む、死という暗い深淵に彼女はそっと触れた。